セント・ポール大聖堂に眠るヘンリー・ムーア |
ヘンリー・ムーア(Henry Spencer Moore, 1898-1986)と聞けば、多くの日本人は(箱根にある)「彫刻の森美術館」を連想することでしょうが、しかし、まさかセント・ポール大聖堂に埋葬されているほどの高名な芸術家・彫刻家であったと知る人は少ない気がします。 世界遺産にも登録されている(世界で最も有名な)ロンドンの国会議事堂のヴィクトリア・タワー前(緑の芝が敷かれた場所)にムーアの作品がひっそりと置かれているをご存知でしようか? が~ん!只今、メインテナンスの作業中のため小屋の中、という感じで景色の中のブロンズ像を撮影できず(涙) 以前、この場所で写真を撮ったことがあることを思い出し、気を取り直して、過去のブログ記事を検索してみましたが、見つけられず。 作業中を撮影(↓) ムーアは彫刻を自然の中(野外)に展示することを好んだ彫刻家です。 「彫刻の置かれる背景として空以上にふさわしいものはない」 「ひとたび野外に出て陽を浴び、雨に打たれ、雲の移りゆきを感ずるときには、彫刻も生活の一部であるということがよくわかる」 と語っています。 ヴィクトリア時代が間もなく終焉を向かえようかという1898年に北イングランドのウェスト・ヨークシャー地方で、炭鉱夫の息子(8人の子どもの7人目)として生まれたムーア。 18歳の時、第一次世界大戦に徴兵され、ライフル部隊に所属しますが、その後の戦いの中で毒ガスにより傷害を受けてしまいます(運よく回復は早かったそうです)。 戦後は、(私も住んだことのある)ウェスト・ヨークシャー地方のリーズ(Leeds)にできたばかりのリーズ芸術学校で学び、この学校で生涯の友ともいうべきバーバラ・ヘップワース(Dame Barbara Hepworth, 1903-1975)と出会います(彼女もウェスト・ヨークシャー出身で、デイムの称号を受けている有名な彫刻家)。 さて、(月に二回ぐらい)バタシー・パークでぼーっとしていることが私にとっての至福のひと時なのですが・・・ この公園の池のほどりにも、ムーアの作品があるんです。 公園の中でも取り分け「一番目立たない」「存在を知る人が少ない」という場所に・・・ 足元のラッパ水仙が咲いたなら、さぞや絵になるでしょうに。もう時期です。 ムーアの奥さんという方は、ポーランド系ロシア人でロシア革命の最中に父親が行方不明になり、お母さんの再婚相手は英国人。家族はフランスに密入国して、後に英国に移り住むという波乱の少女時代を送った苦労人です。 奨学金を得てロンドン・カレッジ・オブ・アーツで学び、後に講師を務めていたムーアは、当時、学生であったこの彼女と結婚し、ロンドンのハムステッドで暮らし始めます。 ハムステッドの家には、バーバラ・ヘップワースをはじめとする数人の芸術家が集まるようになり、お互いに新しい考え方に共感する芸術家と彫刻におけるモダニズムの石杖を英国にもたらします。 第二次世界大戦で、ハムステッドの家はドイツ軍の空爆をうけて破壊されてしまったので、夫妻はハートフォードシャーのマッチ・ハダム(Much Hadham)の町の農家の住まいを買って引っ越します(晩年を過ごし、ここで没しています)。 戦後の焼け野原という時代が影響したかもしれませんが、大規模なモニュメント並みのパブリック・アート制作の注文をこなす能力によって、ムーアはその生涯の後半に美術家としては並外れた財産をきづきます。 しかし、彼は質素な生活を死ぬまで送り、その富のほぼすべてが「ヘンリー・ムーア財団」の基金として寄付され、美術教育や普及の支援のために使われています(一人娘の相続税対策のために財団を設立したというのが本当の主旨ですが)。 彼の特徴的な作品は、抽象化された人体像(とりわけ女性)がゆるやかに捻じ曲げられていて、その起状が空洞(穴)をかたち作るというようなイメージのものです。 実は、バタシー・パークには、ムーアの生涯の友であり、ムーアから多大な影響を受けた彫刻家バーバラ・ヘップワースの作品もあるんですよ(↓) 彼女の作品は、まさにどれも「穴」です。 ムーアは、1951年にナイトの称号が与えられようとした時、辞退しています。コンパニオン・オブ・オーナ勲章(1955)とメリット勲章(1963)は授章しています。 自然の中に置かれることを好んだ彫刻家、そのゆるやかなカーブを描く作品は、どこまでも広がるヨークシャの緑豊かな丘の風景であると、すべての人が想像しています。 |
by rie-suzuki67
| 2013-03-07 06:55
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