キャプテン"スコット"の日記 |
発見や探検は、一番乗りをした者だけが、後世に輝かしい名を残すのが常ですが、二番手にも関わらず(一番手よりも)世界的に有名になり、人々の心を打ち、永遠の命を得た人物がいます。 ピカデリー・サーカスをセント・ジェームズ・パークに向かって(ローワー・リージェント・ストリートを)下って行くと、その人の記念像がたっていますが、碑銘には、帰らぬ人となった彼の残した日記の一文: 「もし、生還することができたなら、故国の人々すべての心を高揚させるような、私の仲間達の苦行と忍耐、そして勇気の話を語ることができるのだが。いまや、こうして残す手記と我々の死体が、物語を伝えることになるだろう。」 1912年1月17日は、キャプテン ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott, 1868-1912)率いる計5人の英国探検隊が、サウス・ポール(南極点)に到達した日です。 北極点よりも遥かに難しい南極点到達というこの偉業にも関わらず、記念写真の5人が暗い表情をしているのは、寒さと疲れだけではなく、南極点一番乗りの夢が破れ、意気消沈していたからでしょう。 帰らぬ人となった5人が、やっとの思いで到達した南極点で見たものは、ノルウェー旗。 アムンゼン率いるノルウェー隊が南極点に到達したのは、わずかに一ヶ月早い1911年12月14日。 スコットは日記に「最悪のケー スが現実となった。」そして「なんて、ひどい場所だ。」 5人は、英国旗を揚げ、写真を撮り、(ノルウェーの)アムンゼンの残した「無事な帰途を祈ります」のメッセージを読み、南極点で休息を取り、観測まで行い、2日間過ごした後に、再び、重い足を引きずり、長い帰途に向かいますが、途中で息絶え、帰らぬ人となる5人の苦行は、スコッ ト隊長の残した日記や手記などから明らかとなっています。 スコット隊が、南極大陸に到着したのは、南極点到達の約1年前の1910年12月(南極 は夏)。基地を築き、その周辺の動物、地質、自然などの観測を行い、その後、いよいよ南極点への出発は1911年11月初め。 観測までもを担っていたスコット隊と、南極点一番乗りだけを目的にかかげていた(ノルウェーの)探検隊とは大きな違いがあります。 大変な苦労をしながら、最後は(犬もポニーも失い)マンパワーのみでソリを引いて進むこととなった彼らを目的地で待っていたのは、ノルウェー旗、周辺にはスキーやソリの跡とノルウェー探検隊が引き連れた無数の犬の足跡。 消沈の帰路、まずは転倒し頭を打撲して負傷したエヴァンスが死亡。 食料のデポは、一日16~19km進む計算で、約105km毎に設置されていたということですが、悪天候と体力消耗で、進行は遅れ、空腹を抱えての歩みとなり、燃料のデポは、入れておいた缶に漏れている物があり、身体を温める火を起こすこともままならない帰路となります。 次に、オーツが足にひどい凍傷を負い、歩くすら困難になります。「自分が重荷になっている」と感じたオーツは、ある夜、テントから一人、マイナ ス47度の外へ出て行き、他の3人が生き延びる可能性が増えるように、そのままテントには戻らない自己犠牲を取ります。 オーツの誕生日であ る3月17日だったそうです。スコットの日記による、テントから出て行くオーツが、最後に漏らした言葉は(当時の英国人男性の特徴と言われる「スティフ・アッパー・リップ」(「膠着した上くちびる」とは、感情をむき出しにせず、冷静に物事に対処する態度)として、大変、有名で): "I am just going outside and may be some time." ちょっと外へ出てくる。しばらく戻らないかもしれない。 残りの3人は、何とか先へ進もうとするのですが、次の(食料と燃料が置いてある)デポまで18kmという地点で、ひどい嵐のために立ち往生となり、天気の向上を待つ間のテント内で死亡。 冬の間は、捜索隊を出動させることが困難なため、3人の遺体がテント内の寝袋に包まった姿で発見されるのは、南極の地を踏んだ日から約2年後の1912年11月12日。 死体発見のニュースが、英国に届くのは、翌年2月になってから。 スコット隊長が死亡した時に2歳であった一人息子ピーター・スコット。スコットが、妻に残した手紙の遺言の一つが、「もし、できるなら、(ピーターが)自然史に興味を持つように育てて欲しい」。 その通り、ピーター・スコット(Sir Peter Markham Scott, 1909-1989)は、子どものころから動物が好きで、後に、著名な鳥類学者・湿地保護活動をはじめとする自然保護活動家となり、世界自然保護基金(WWF)の創設において彼を抜きにしては語れない人物になります。 WWFのロゴマークとなっているパンダは、たまたまロンドン動物園に中国から来ていたジャイアント・パンダを見て、わかりやすいアイキャッチであるとして、彼がデザインしたものです。 因みに、ピーターの名づけ親(ゴッド・ファーザー)は、「ピーター・パン」の作者であるジェームス・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie)です。 スコット隊長の記念像の他にご覧いただいた写真はすべて(WWFのポスターを除く)、自然史博物館に設けられている「Scott of the Antarctic」の展示コーナーからのものです。 自然史博物館のショップには、彼に関する書籍もずらっと並んでいます(↓下の段、全部) 1949年に「Scott of the Antarctic」というタイトルで映画化もされています。 |
by rie-suzuki67
| 2014-01-30 09:37
| :: Gal./Mus./Theatre
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